島のあらまし


日本からマリアナ諸島まで

パガン島地図
 

























パガン島ってどこにあるの?

 パガンはサイパンの北約290キロ、マリアナ諸島の北端にある、長さ12キロ幅4キロの火山島です。 全体におたまじゃくしのような形をしており、北部にそびえるパガン山は標高570メートル。記録に残るなかでは、大正11(1922)年3月と、昭和56(1981)年5月に噴火をしました。南部の高地からもすこしの噴煙がありました。こうした火山の影響でパガン島には黒い砂浜があり、これはマリアナ諸島のなかでも 独特のものだそうです。平地にはヤシ、バナナ、パンの木、マンゴーなどが茂り、野生のヤギや牛が多く棲息しています。

 

「パガン」って、どんな意味?

 北マリアナ諸島は、1521年にマゼランがグアムを発見してから、1899年までスペインが統治していました。その後、ちかくのカロリン諸島とともにドイツに売られ、第一次世界大戦までドイツが統治、大正3(1914)年から日本の委任統治領となりました。第二次世界大戦後はアメリカの国連信託統治領となり、昭和56(1981)年、住民投票により、ようやく自治政府・北マリアナ連邦となったのです。

 「パガン」とは、スペイン語で「異郷」という意味だそうです。それまでは「盗賊諸島」と呼ばれていたというマリアナ諸島のなかでも、さらに遠い、未知の島だったのでしょう。


人々のくらし

 大正6(1917)年4月、パガン島近くのアグリハン島が噴火し、島民がパガン島に避難しました。その中に6人の日本人が含まれていたという記録があります。

 その後、南洋貿易会社という企業がヤシ栽培のためにサイパンの島民(カナカ人)を移住させ、昭和10(1935)年ごろから飛行場建設がはじまりました。200人ほどの日本人と、まわりの島から集められた4〜500人の島民が工事にあたりましたが、パガン島の地盤は火山帯独特のかたい岩だったため、たいへんな難工事となり、毎日のようにたくさんの人夫が亡くなったそうです。

 昭和12(1937)年ごろから日本海軍による基地建設が始まりました。昭和17(1942)年ごろからは日本から漁業に従事する人々がわたり、おもにカツオやマグロ漁をいとなんでいました。また、コプラ(ヤシの油)、長イモ、少量 のレモン、バナナ、オレンジ、サツマイモなどの産物がありました。水がなく、ほとんど毎日降るスコールの雨水をたくわえて飲料としていました。

 日本人は鰹節工場のあるショムションの町から島の南部にかけて分散して住み、子供たちは町の国民学校に通 いました。町には2、30軒の民家、船着き場、神社、日用雑貨をあつかう小さな店、駐在所、開業医、カフェがありました。このカフェには、戦後有名になった「アナタハン事件」の中心となった女性が、アナタハン島へ渡るまえに勤めていました。アナタハン事件の詳細はこちら(別 窓で開きます)

 カナカ人はおもにラグナ湖畔とデグサ海岸の周囲に集まり、ヤシの木で建てた高床式の住居に住み、数個の井戸をもっていました。ヤシガニや魚をとって、日本人のつくるサツマイモや野菜と物々交換をするなど、おたがいに仲良く暮らしていました。昭和17年当時で、人口は日本人413人、カナカ人229人。とくに沖縄と小笠原からの移住者が多かったそうです。


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